アドラー心理学における身体論と現象学と臨床

アドラー心理学学習会(高知)があった。Zoomなので60人弱 全国から集まっていた。
主催者の尾〇先生は ご夫婦で校長先生であった。古くからの友人である。(知人かな。。)
色々な立場の人が、分け隔てなく参加できるのがいいところである。パセージ初心者の人も参加されていた。

午前の発表者は梅●先生であったが、興味深かった。この人も古くからの友人である。
先生は 児相所長をへて、今は自閉症の人たちのことをやっている。
そのアプローチ法はずっとアドラー心理学である。
貴重なアドラー心理学臨床が蓄積されている。

(うちのほうは、本を書かないのですよねぇ。。(笑) 書けばいいのに、と以前から思っています。。)

私はアドラー心理学は準構造主義が前提なので、どうだろうと思っていたところがったが色々納得した。
梅●先生によると 言葉を持たない人を切り捨てるのはアドラー心理学的ではない。とも言っていた。
アドラー心理学と発達段階の研究は うちのほうでは弱いところである。が逆を返せば アドラーも追及してないし、それをしなくてもうまくやっていた。ということでもあろう。

先生は 古武術や身体操作 その他に精通しており、だいぶ進まれているので、ついていけない人もいただろうが勉強になった。
アドラー心理学はコミュニケーションの心理学ともいえるが、コミュニケーションの多くはノンバーバルなので、たしかにそこは無視できない。
そして、現象学も見直すべきであるとのこと。たしかにアンスバッハは現象学であった。

以下は 梅●先生の講義の要諦である。

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15 アドラー心理学が孕んでいる課題群①
1.言葉が適切に届かないケースへの対応
EX:発達障害やトラウマ関連障害等を有しているケースの一部
前言語的方法論や身体的方法論が必要であり、その為には発達論や身体論が必要になる。

2.アドラー心理学は子育てや教育問題に関与しているにも関わらず発達論がない。
カウンセリングと直接支援の違い。⇒相談場面の課題、対処場面の課題
支援の対象はクライエントであって相手役ではない。相手役はクライエントの世界像の一部である。
発達科学は実証的方法なので仮想論と相性が悪い。
仮想論から見れば発達論も一つの仮想に過ぎないが、仮想論は常に事後的である。
仮想は身体によって行われ、身体は成長(変容)する。
発達/身体は現在である。しかし、仮想は過去である。

3.仮想論の呪縛
ライフスタイル分析の結果に呪縛される現象⇒ライフスタイルの劣等コンプレックス化
仮想されているのは過去に立てられて、現在も使われているプランである。

4.全体論と仮想論の齟齬
全体は適切に仮想(≒認識)できない。
全体は謎の領域があり、それ故に成長(変容)の可能性が示される。
しかし、変容への決断は如何にして可能か?
全体とは何か?どこまでなのか?
主体を突き詰めていくと相対的全体論と絶対的全体論が曖昧になる。

5.ノンバーバルな影響力の重要性
コミュニケーションの成立要素の7割はノンバーバルな要素である。
ノンバーバルということは身体的感覚的要素が占めている。
仮想構築の材料は身体的要素である。

6.集団をどう扱うか?
集団の価値、集団の雰囲気、ルール、文化、身体性、教育、政治etc…
多様性、カオスをどう扱うか?
ネット世界(身体性の希薄さ、情報的観念的世界)をどう扱うか?

新たなる試み(その1):
新たなる試み(その2): (ここでは略します 詳しくはアドラー心理学東京へ。。)
2.良質なライフタスクを構成する為に発達科学を取り込む
①質料因(器官劣等性、発達状況、身体特性、ストレングスなど)の現象学的理解
②発達のピラミッドから前言語的アプローチ(身体的アプローチ)を創出する。
(略)
新たなる試み(その3):武術
3.光岡英稔師による武術の死生観と稽古方法からの学び
①型稽古としてのカウンセリング(心理療法)の構築⇒現場ではない相談場面で何を目指すのか?
カウンセリングは想定の構築ではなく、当然リハーサルでもない。
自分と世界を再発見していくという(未知に開かれていく)経験であることが肝要である。
ひとつの型(形式)を通ることで再発見(差異の感知)が可能となる。
再発見された事象に捕らわれないことが肝要となる。再発見のプロセスこそが重要で、再発見された事態を再現しようとしてはならない。
(略)
⑤武術的時間論:一回性と周期性(法則性)⇒(略)
過去の経験を参照しても、過去の経験に入らない。常に現在の経験に身を置くことが大切である。(ライフスタイルは参照されるだけ)
受動と能動が一致するところに変容が生ずる。それは主体的(意識的)な決断ではない。全体的な流れである。自然な動きである。
洞察とは自然な流れが見えることであり、個人の主体性は共同体との調和の中で初めて自然に実現する。

(略)

だいぶ略しましたが、詳しくは アドラー心理学東京へ。。(笑)

でも、アドラー心理学やってる人で、ここまでやろうとする人、あまりいないんじゃないかなぁ。。