私の心理療法体験談 電車 パニック障害 森田療法
今から20年ぐらい前だろうか30代前半の頃私はある職場で働き盛りであったがいつもの朝の通勤電車の中で、心臓が急にドキドキしてなんか変だなと思った。
不整脈を持ってる叔父がいるので、それが出たのかなと思ったが気にしないで普通に生活していた。
ところがしばらくしてそれどんどん悪くなっていき特に満員電車とかの場合は顕著に出て、電車に乗りづらくなった。
その時期は、自分の職場での方向性も悩んでいたし子供も生まれたばかりだった。
仕事は中間管理職的ですごく忙しかったこのままこの職場でいいのだろうかと思っていた。
すごく忙しい仕事をしてやっと晩御飯にありつけるのだが、食べていると、奥さんが、こういうことがあった、水漏れがしてるから直してくれ、何々をいつまでにしといてくれ、その他色々何々しといてくれ、と機関銃のように毎晩しゃべりかけてきた。
その時食べてるものの味がふっとなくなった事を今も覚えている。
動悸がひどくなってきたので、私は循環器科に行って見てもらった。
医師の方も軽く心房ブロックがあるかもしれないという話であって、別に何してくれるわけでもなかった。
何回か通ううちに先生も歯切れが悪いので、こちらから、心臓神経症でしょうか。と言ったら、そうかもしれないと言っていた。
症状はどんどん悪くなってきたので、どうにかしなければいけない。
タフだと思っていた(思われていた)私としたことが、こんな情けない事になるなんて。。
精神科に行くのかよキ***病院に行くのか。。と、思ってちょっと絶望的な感じだった。
(当時はまだそんなに心療内科が一般的だったわけではない)
私は池袋の心療内科に行った。そこの先生はとてもいい人でその先生の息子さんが私と同じ職業であった。
色々話しかけてくれて、アドバイスしてくれた。
大したことないけど一応薬を出しておこうということだった。
また、そこの医院が森田療法が専門であったので、「森田療法って知ってる?」って先生に尋ねられた時、
私は「森田作業療法ですか。」と言った少し読んだことあったが正確には知らなかった。
ちょっと違うよ。と言われ本を紹介してもらった。
心臓がドキドキしながらそれらの本をたくさん読み早く治そうと思った。森田療法の本は面白かった。
本を読んでから2回目の来院の時、「森田療法をやりたい」と言ったら作業所はすごく厳しいので現実的ではないと言われてしまった。
どんなにすごい病名をいわれるのか不安になりながら、先生に診断名をきいたら、少し抑うつ的になっているかもしれない。ということだった。
薬を出されたが私は飲まなかった。
いよいよ電車乗れなくなって何しろドアが閉まるとすごく焦る。脈拍が150ぐらいになるし、あぶら汗がでる。
私は秘策を編み出した。何しろ電車が駅でもないところで、途中で急に止まるのが本当に辛く心臓がバクバクドキドキした。
ずっと止まってると思うので私が編み出した秘策は、
一番先頭車両の運転席の後ろから、進行方向の信号機の色をずっと見ているということであった。
赤だったら止まるんだろうがそれは予測できたし青だったら止まらないのでとても安心であった。
(てっちゃんのようだが、てっちゃんではなかった。私は体が大きいので、本当のてっちゃんは迷惑であっただろう。さすがに子供にはゆずった。後ろからガン見である)
仕事は別に普通にしていた。(普通じゃなかったのかもしれない、効率は落ちてたのかも。。)
仕事のメインは本業の大学病院の仕事の後にアルバイトとして色々な歯医者さんで矯正の患者を集めてもらってそれを自分が直しに行くというものであったそこで電車を乗るわけだがそれがつらかった
元々それ以前に私はサラリーマン気質はなかった
私は学生時代遅刻まであったがそのアルバイトにおいて欠席や遅刻はしたことがなかった鉄の扉に道を挟んで親指が腫れて整形外科に行ったら爪の上から太い針を刺されて内出血しているししほ出してから爪をはがしたのだがその当日にも普通にそこに通って行った
何しろ太い針を刺すよって言われてどうぞつったら作って音がしてそしてあれは止まったのだがどうも骨にあたってで止まっていたようだ
私はもしかしたら精子もこのままおかしくなるのではないかという不安も出てきて森田療法で言うところの臥褥療法を自ら行うするとやっぱり退屈になってきたものだずっと寝てられない
あと森田のいう よりよく生きる欲求が強すぎるということはなんとなく自覚できた
大正時代に集団的にこういう治療してる先生がいたことは、すごいものだと思った。
西洋にはない考えだと思うしどうやってこういうことが生み出されたのか慈恵医大は凄いなあと思いました
あのビタミンの海軍の焼香の例もあるし創設者
このような症状について悩みを話セル人は周りに一人もいなかった